仕事ばかりだった私が、子どもの前に座るまで

工場は、

わかりやすい場所です。

 

図面どおりにつくれば、

図面どおりのものができます。

 

ずれたら、原因があります。

 

原因を直せば、ずれは消えます。

 

私は二十年、その場所にいました。

 

家は、そうではありませんでした。

 

だから私は、

 

わかりやすいほうにいたのだと思います。

 

これは、

 

その私が家の側に座るまでの、

長い話を短くしたものです。

「ただいま」と「おかえり」のあいだ

帰宅は、

たいてい子どもが寝たあとでした。

 

起きている日でも、

交わす言葉は決まっていました。

 

「ただいま」

「おかえり」

 

その二語のあいだに、

 

何も挟まらない日が、何年か続きました。

 

不仲だったわけではありません。

 

喧嘩もしていません。

 

ただ、

 

挟むものを、

私が持っていませんでした。

 

子どもの学校のこと、

友達のこと、

好きなもの。

 

どれも妻に聞けばわかることで、

 

実際、

妻に聞けば済んでいました。

気づいたのは、参観日

一度だけ、

授業参観に行ったことがあります。

 

教室の後ろに立って、

 

自分の子どもを探すのに、

数秒かかりました。

 

数秒です。

 

でも、

 

その数秒が、

帰り道までずっと残りました。

 

毎日同じ家にいる子どもを、

 

人混みの中で、

すぐに見つけられなかった。

 

工場なら、

 

五千の型の中から

一本の傷を見つけてきた目です。

 

その目が、

 

自分の子どもには、

ピントを合わせていませんでした。

決めた日は、なかった

そこから一気に変わった、

 

という話なら、

きれいなのですが。

 

実際は、

何も決めませんでした。

 

「明日から子どもと向き合う」

と宣言した日は、ありません。

 

変わったのは、

もっと細かいことの積み重ねでした。

 

休みの日に、

子どもの工作を一度だけ手伝った。

 

壊れたおもちゃを、

捨てる前に一度だけ分解してみた。

 

「ただいま」のあとに、

一言だけ足してみた。

 

どれも、

一度きりのつもりでした。

 

一度きりが、

二度になり、

ときどきになり、

 

いつのまにか癖になりました。

見るための目

仕事で長く鍛えてきたのは、

不良を見つける目です。

 

どこがずれているか。

何が原因か。

 

最初、

 

その目をうっかり子どもに向けて、

失敗しました。

 

宿題のやり方、姿勢、時間の使い方。

 

ずればかりが見えて、口を出して、

 

嫌がられました。

 

子どもは、製品ではありませんでした。

 

直すための目ではなく、

ただ見るための目。

 

検査ではなく、観察。

 

その切り替えに、

ずいぶん時間がかかりました。

 

正直に言うと、

 

いまでも、ときどき間違えます。

いまの席

夕食の席で、

 

私はあいかわらず、

口数が多いほうではありません。

 

ただ、

 

先生の名前は、

いくつか言えるようになりました。

 

子どもがいま何に飽きて、

何に移ったのかも、

 

だいたい知っています。

 

「ただいま」と「おかえり」のあいだに、

 

ひとつかふたつ、

言葉が挟まる日が増えました。

 

挟まらない日も、まだあります。

 

それでも、

 

私はいま、

わかりにくい場所のほうに座っています。

 

座っていられるようになったことが、

 

たぶん、

いちばんの変化です。

 

——

ここまで読んでくれた人へ。

 

LINEで、

 

父親について静かに考えるための便りを、

ときどき送っています。

 

何かを変える場所ではありません。

 

ただ、

距離が少し近づく場所として置いています。